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愛を信じてる

痛みも悲しみも全てを受け入れて、 I am Happy!

逃げ恥と星野源から考えたこと

最近源さんを好きになった。きっかけは逃げ恥だった。繊細な表情の変化を見せるひらまささんが好きで、だんだん“それを演じる星野源”という存在に興味を惹かれるようになった。

 

彼を知っていく中で「源さんって、“正しい”人だな」と思った。

 

“正しい”とは何かと問われると困るが、そう感じた。

 

友人に借りた源さんのエッセイ『そして生活は続く』も、とてもおもしろくくだらなく、笑いながら読んでいたが、「確かにそうだな」と思わされる場面がそれは多くあった。ラジオ音源聴いていてもそうだった。

 

源さんのことを知っていくと、妙な親近感を覚えた。エッセイ冒頭の「生活が苦手」とか、わかりみがすぎる。というか、これ読んで「あ、わたしって生活が苦手なんだ!」と気付いた。他にもいろんなところで、「分かるかも!わたしもそう!」という部分があった。しかしさらに知っていくと、わたしと全然違うと感じるようにもなった。わたしは生活が苦手だし多少の自己嫌悪に陥ることもあるけれど、そんなわたしもわたしだよね☆とか都合よく捉えてなかなか改善できていない。一方で、源さんはダメなことはダメ、としてちゃんと改善している。この差は大きい。とても似ているけれど全く似ていない・・・そんな存在だと思ったからこそ、より強く惹かれたのだと思う。

 

先月29日、翔さん司会のベストアーティストが放送された。これには源さんも出演予定で、翔さんとの絡みも含めて源さんのパフォーマンスもすごく楽しみにしていた。

ところが当日、「過労のため出演辞退」という公式Twitterからの報告を目にした。大丈夫だろうか・・・楽しみにしていたので残念だったけれど、仕方がない。深刻でなければいいのだけど。ちゃんと休んで体調整えてほしいな。*1

 

そういえば前日は月曜日だった。源さんは月曜の25:00から、深夜にラジオを生放送している。それにはちゃんと出ていた様子。なにか兆候はなかったのかなとか、何を話したのかなとか、気になって探してみた。

 

 

この日の源さんも、やはり“正し”かった。

 

逃げ恥7話の感想メールを紹介し、それに関して思ったことを源さんが述べていたのだけど、全くその通りだと思った。

以下はその部分を文字起こしして、感嘆詞を一部削るなどしたもの。

星野源ANN 2016.11.28(一部)

 

正論&正論&正論。この出来事*2を俯瞰して捉えているなと思った。

この正論になぜ素直に頷けるのか。それは源さんが自分の考えを押し付けてこないからだ。100人いれば100通りの考え方があって、たぶんどれも否定しえない。わたしは源さんの考えを「正しい」と感じるけど、ラジオにメールを送った人たちのような考えを持つ人も、それを正しいと思う人もいるわけで。多様な考えを持つ多くの人が聴いているラジオで、それこそセンシティブなテーマについて話すときに「おもしろいと感じたこと」というスタンスで話をしている。「その考えは間違いだ、俺はこう思っていてこれが正しいのだ」なんて、否定したり押し付けたりしてこない。でも源さんの考えはちゃんと伝えてくれる。だから「確かに……なるほどな」と思えるのだ。

 

というか、源さんのラジオ聞いて、「あ…このドラマの登場人物って苦しんでるんだ。ひらまささんもみくりさんも、苦しんでるんだ」って気付いた。びっくりした。一応分かっていたつもりだったと思うんだけど、分かってなかった。だってこれはドラマだし、現実には存在しない人たちだし、あくまでエンターテインメントだ。第三者として登場人物の表情だの発言だの行動だのにあーだこーだ言って、ふたりの恋のゆくえにドキドキするというこの時間を楽しんでいる。一種の消費だ。

 

だけどこれが自分だったら。身の回りの出来事だったら。

 

苦しい。とても苦しい。性別とか、仕事とか性格とか周りの人とか、いろんなことに縛られてうまく思いを伝えられなくて。相手が自分に対して何を思ってるか分からなくて。ドラマじゃないから相手の考えてることも自分と離れているときの行動も知らなくて。え、やばいめっちゃ苦しい。

 

「平匡なり、みくりなりが、ずっと苦しんできた、“男に生まれたから”っていうレッテル、“女に生まれたから”っていうレッテル」

「出演者が苦しんでいる理由は、見ている人たちの 怒った人たちの心のなかにある」

って、それ聞いた瞬間めっちゃ心が重くなった。別にひらまささんに怒ってたわけじゃないし、むしろ「みくりさんちょっとそれは…!?」って思ってたんだけど。みくりさんもみくりさんで人から受け入れられたい、ここにいていいんだよって認めてもらいたいという気持ちがあったわけで。あの言葉だってきっと好きだからこそで、軽々しく言ったわけではなくて、ちょっとくらい勇気も必要だったはずだし。

 

「男らしさ」「女らしさ」って言葉、最近はあまり使われなくなってきているのかなと思う*3。それはまさに"ジェンダー"の視点だ。性別によって区別するのではなく、もっと個人を見るべきじゃないか。"その性別らしさ"を求めるのではなく、"その人らしさ"を求めるべきではないか。

わたしは「らしさ」という言葉が心底嫌いだ。らしさってなんだよ。高校のときに部活動で再三言われてきた。わたしは放送部に所属していたのだけど、必ず言われるのが「高校生らしさ」だった。高校生らしさって何??高校生が思うこと、高校生が作るものならそれが「=高校生らしさ」じゃないの???大人はわたしたちに何を求めているんだ!!高校生らしさとはなんだ!!!ってワーワー言いながら番組作ったりアナウンスしたりしていた。大会に向けて活動するときは、いつだって「大人が考える高校生らしさ」というものに悩まされていた記憶がある。

それから「自分らしさ」。自分らしさって、誰が決めるのだろう。友達から「○○っぽくない!」だとか「○○ってこうだよね」とか言われても、自分ではそう思わないこともある。でも自分の思う自分らしさもよく分からない。人の思う“わたしらしさ”と自分の思う“わたしらしさ”の違いというか、「自分らしさって誰が決めるの!?!?」みたいなことをずっと思ってきたように思う。

 

もしかしたら“その人らしさ”ということすら、レッテルになりうるのではないか。「この人ってこうだよね」と決めつけて、そのイメージから外れたことをすると「えーらしくない〜〜!」なんてつい否定じみたことを言ってしまう。「この方があなたらしいよ」なんて、分かったようなことを言ってしまう。

 

これらのことを思ってしまうのって、しかたないことだ。性別についてもこの人は男、女っていうのは事実なわけで(だからこそ身体的な性と自認している性のギャップに悩んでいる人もいるのだと思うけど)、誰かに言われる“○○らしさ”だって、その人から見る“○○”の価値観なり経験なりに基づいているわけで。わたしはそれは正しいと思う。そういうものだと思う。

ただ、それをその人の全てだと断定してしまうことが問題なのかなと思う。「レッテルを貼る」という行為をして、そのレッテルにこだわって、「こうなんだからこうあるべき」と自分や他人を縛り付けてしまう。それってとっても窮屈だ。

 

 

 もっと気楽に、柔軟に考えたい。

例えば、

 

幼なじみの女の子で、昔一人称を「ぼく」にしていた子がいた。それを、「あなたは女の子なんだからその一人称はおかしい!」と怒るのではなく、「ぼく」がいいと感じたその子のセンスを認める、みたいな。

「自分だったら"ぼく"って使わないや」「ちょっと変なの」って、思ってもいい。ただそれは自分のなかでの、自分のセンスであり、それが相手にとってもイコールでないかもしれないことを理解することが大切だと思う。

 

 

自分の考えも大切にしつつ、他人の考え方に思いを致すくらいの余裕を持つ。

 

みんながそういう風に考えられるようになったら、世界が平和になるんじゃないかなあ…。

ラブ&ピース。いえあ。

 

*1:12/3に、公式Twitterと逃げ恥のTwitterから源さんが無事復活したことと元気そうな様子、そして源サンタのプレゼントのお話を知ることができた。よかった。忙しいと思うけど、応援しています

*2:ドラマで描かれていることとラストシーンに対する反響やメールなど

*3:まだ「男/女らしさ」という考え方は根付いたままのようにも感じられるけど