愛を信じてる

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本を買うことと読むこと

ある晴れた昼下がり、わたしは本を買った。

 

わたしが通う大学の敷地内には小さな本屋さんがあり、学生証を提示すればいくらか安く購入することができる。

そこには参考書や新書のみならず、小説やライトノベル、雑誌にマンガとあらゆるジャンルの本が並んでいて、時間ができるとついその本に囲まれた狭い空間を求めて足を運んでしまう。

 

 

その日も同じだった。

 

特に欲しい本があったわけではないが、次の授業まで時間が空いていたので何気なくその本屋さんに入った。

 

 

出てきたときには、3冊の本が入った袋を持っている自分がいた。

 

 

 

わたしは本が好きだ。

 

いや、正確にいうと、本を「買う」ことが好きなのだ。

本屋さんという 様々な物語が秘められた空間のなかで、目についた本をぱらぱらと捲ってみる。取り揃えが豊富なおかげか、気付かないうちに長居してしまうせいか、そうしていれば必ず1冊は心を惹かれる本に出会える。表紙か、タイトルか、たまたま開いたページから聴こえる波の音か、わたしが何に心を惹かれているのかはわたし自身分からない。けれど、「この本を読んでみたい!」と思う気持ちが胸の奥で鳴り響く。

その感覚が好きなのだ。

 

 

しかし実際に買ってきても、わたしはその本たちを一向に読み始めようとしない。

本を読むことが苦手なのである。

 

なんという矛盾だろう。本を買うのは好きなのに、本を読むのは苦手。買って、それを自分のものにしたことに満足してしまうというのだ。しかし、そもそも本は、読むために買うのではなかろうか。読まない本を買うというのは、ただのお金の無駄遣いではないだろうか。

実際、3冊を新たに手に入れたわたしの家には、いまだ読み切っていない本が11冊もある(頂いたものを含む)。本を読み切れていないのに次の本を購入してしまうというのは、経済面から見ても反省すべきことではあるが、しかしわたしにとってそう簡単にやめられることでもないのだ。

 

振り返ってみれば、元々わたしは本を読むことが好きな子供であった。実家にあった1人がけのソファに腰掛け、家族が寝静まる深夜11時に、1人で分厚い本を何日もかけて読み進めるのが大好きだった。

 当時小学生だったわたしが読んだのは専らファンタジー小説だったが、日常生活では経験できないことを物語の中で“疑似体験”できたということもあり、いま振り返っても大切な時間である。

 

 

しかし、年を重ねるにつれて本を読む機会が少なくなってきた。

 

小6で、周りに遅れをとりつつもDSを買ってもらい、初めて「ゲーム」というものに触れた。

「嵐」を好きになり、テレビを見る時間が急激に増えた。

加えてウォークマンを買ってもらい、音楽を聴くことに時間を割くようになった。

中学にあがり、部活動や生徒会活動などで以前よりも時間がなくなった。

高校合格が決まり、それまでウェブ閲覧の規制により電話とメールしかすることのできなかったガラケーからスマートフォンに買い換え、いつでもネットをすることが可能になった。

TwitterやLINEを始め、そのおもしろさにハマりSNSに依存するようになった。

高校に進学し、以前より部活に掛ける時間が長くなった。

 

 

 そういうことを言い訳に、本と距離を置いた。

本というアナログなものの楽しさを忘れ、新しいデジタルなものの楽しさに陶酔しきっていた。

 

デジタルなものは、時間をかけずに楽しむことができる。好きなときに好きなことだけを手軽にできる。動画の見たい部分だけを再生し、興味の無いところは飛ばしてしまうこともできる。映像ならば、次々に情報が入ってくる(それが頭に留まるかはまた別の話である)ので、自分で考えることをしなくなる。もちろん映像を見て、そこから派生させていろいろと考える人もいると思う。しかしわたしは、視覚情報と音声情報だけで満足してしまうようになった。

何も考えずにただ情報を受け取ることに慣れてしまったのだ。本を読むというのは映像を見るよりも時間がかかる行為である。文字を読み、登場人物の心情や状況を理解し、そこから映像なり写真なりを思い浮かべて物語を読み進める。もちろん全ページ読まなければ、理解しきれないことも多いであろう。

そもそも、「文字」は人間が文明を築くなかで情報を未来に残すために発明したものであり、文字の読解能力も後天的に獲得したものである。「読字障害」の存在も、それを証明するひとつであると言えよう。つまり、文字を処理する作業は人間にとって負担が大きいのだ。

 

 

だから負担の少ないデジタルに逃げた。

つくづく人間は省エネを求める生き物である。

 

 

しかしわたしは、その心の奥に「本を読む」ことの楽しさ、「本を読む」ことで生まれた感情をちゃんとしまっていた。

だからこそ、本屋さんという空間が好きなのであり、つい本に手を伸ばしてしまうのであり、「これだ!」と思ったものは買ってしまうのである。

 

スマホもパソコンもゲーム機もなく、せいぜい夕飯のときにNHK教育テレビを見るくらいであったあの頃にはもう戻ることはできない。

けれど、少しその割合を減らして、また「本を読む」という"こころの小旅行"に出掛けたいと思う。

 

 

 

 

 

という、何となく思ったことの覚え書きでした。

 

めでたしめでたしべベンベン。